富士川は東京から近い割に景色も瀬もちゃんと楽しめる。まず景色の移り変わりが意外に多くてツーリングをしてる気にさせてくれますね。途中にのんびり瀞場も多いと思うと、ちゃんとところどころに瀬があって、それも進むともにだんだん大きくなってクライマックスに一番大きな瀬。途中富士山も拝めたし、夏ならではの水遊び、真近に大迫力で飛んでるフネを見ながらの天然ジャグジーも良かったです。
ワンデイツーリングだけど大変満足の川でした。
南アルプス鋸山から流れ込む釜無川と国師ケ岳から流れ込む笛吹川。2つの川が甲府の鰍沢で合流し、富士川となって、南下し、静岡県を抜けて駿河湾に流れ込む。九州の播磨川、東北の最上川とともに日本三大急流のひとつ。スタート地点の鰍沢町は甲府の街からも近い割に田舎の雰囲気も残り、駿州往還の宿場町、富士川舟運の河岸の町として栄えた場所だ。
スタートは鰍沢の富士橋右岸手前の運動公園
以前はこの川原もかなり工事していたようだが、もう工事中らしき所はない。ここにはトイレもあるし、ちょっとした草地があってキャンプもできる。山に囲まれ静かにのんんびりできるところだ。芝生の横には巨大な高瀬舟がモニュメントとして飾ってある。ここからは数十メートル支流が本流に流れこんでいて、その支流からスタートした。しかし、浅くて進まない。エントリーからいきなりスターンズが無雑作な乗り沈を披露。悪戦苦闘しながらも本流のまったりとした流れに合流する。次の鹿島橋までは両岸とも護岸され、瀬も特にない。水は透明度はいまいちだが、予想していたよりはきれいだ。水中にきらきらと小さく光るものがたくさんあるが、後でそれが雲母とわかった。だんだんと山間に入っていく。
運動公園横は車も置ける
し、キャンプには草地が気持ちいい
スタート地点は支流
いざ出発!暑いので出発前から水浴びモード
本流合流直後。川幅も広く、流れはまったり
最初の橋「富士橋」を振り返る
最初の乗り沈で既にやる気ないとみた
今回の川は浅いのではという噂のためダッキーしかいない
徐々に山間部に入っていく
最初の瀬
鹿島橋を超えるとかつてのスラローム国体コースがある。右岸寄りを通ると大きめの瀬に入る、ど真中に大きなとがった波が。瀬を越えた後の右カーブ壁際での危険な渦とボイルは見当たらなかった。ここを超えてひとまずお昼ご飯にする。昼食後カヌーを放棄して泳ぐものやボディーラフティングするものが続出だ。
ここから先、月見橋まではいくつもの瀬が続く。距離の割には長く感じる区間だ。月見橋を超えしばらくすると左岸に背の高い杭が少し間をおいて均等に並んでいる。草がからんでクリスマスツリーのようにふくらんでいる。途中には前方に富士山が見える。右にゆっくりカーブすると峡南橋だ。このあたりは少し景色も広がる。
鹿島橋の先からは瀬が続く
このあたりの右岸は岩がせまる
次の富士川橋まではそれほど瀬は少なく、川幅いっぱいのゆるやかな流れが続く。以前あったという仮橋も無い。富士川橋を超えると、何箇所か大きな瀬がある。大谷津左岸あたりの瀬は妙に複雑な流れがあって面白い。
瀞場は立ち漕ぎに限る
ダッキーの安定感がよくわかるのだ
瀞場と水浴びの瀬が交互に現れるなかまったりと進み、瀬は結構大きなものがあるもののコースどりが難しいものはなく唯一の川デビューのメンバーもどんどこ先行してしまう。大丈夫かな?と思って見てるなかスターンズで岩と喧嘩しながらも無沈でクリア、腕がいいのか艇がいいのか…。
景色の移り変わりも多い
瀬は真っ直ぐで素直。フネは真っ直ぐ上向き
暑さに耐えられなくなり、水で涼む
暇だとこうなることも瀞場が増えてきた。しかし突如・・・
だんだん向かい風が吹いてきて。瀞場がきつくなってきた。
飯富橋を超えてすぐには大き目のテトラと岩が散在し、コース取りが難しい。ここを過ぎると左手に山がせまり、景色がまた良くなる。大きく左にカーブした後は、岩がごろごろし、ゆるやかな流れに入っていく。しかし、この先には突然放水口からドドッと流れ出すような背が待っていた。真中に岩がいくつも顔を出し、コースを2分している。左手は岩が多く、角度も急だが短い。右手の方が瀬はでかいが素直に通れる。ここで豪快な瀬を幾度もトライして楽しめる。豪快な波で皆見事お空を飛んでいた。
瀬を過ぎるとゴール近くの富山橋もすぐそこ。しかし、向かい風でゴールまでなかなかたどり着けない。途中であきらめパドリングを放棄する軟弱者もでてきた。富山橋を超え、左から小さくてきれいな常葉川が流れ込んでいて、その先の左岸がゴール。ここにはスタートと同じような運動公園があり、草地やトイレもあって、キャンプもできそうだ。
(参考データ)
富士橋手前〜富山橋;; 16キロ
水位 -0.9m
(富士川舟運の話)
スタート地点には木製の巨大な高瀬舟が飾ってある。どうやら江戸時代より富士川舟運で使われていたようだ。
そこで富士川舟運についてかじったことをちょこっと紹介。
「富士山、赤石山脈と周囲を3千メートル級の山に囲まれた甲斐の国(現在の山梨県)は、その昔、交通の便の非常に悪いところでした。江戸への流通ルートとしては笹子峠を山越えして行くか、あるいは駿河の岩淵(静岡県富士川町)まで人力か馬の背に荷駄をつけて運んでいくしかありませんでした。
そして今から4百年前、徳川家康の命を受けた京都の角倉了以によって富士川が開削され、鰍沢から駿河の岩淵(静岡県富士川町)まで開通しました。信州往還と駿州往還の交わる地点に位置していた鰍沢は、この開削により富士川舟運の要衝地、鰍沢河岸として流通の拠点として大きく発展していきました。
当時の主な積み荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれました。下り荷は甲州や信州から幕府への「年貢米」、上り荷は「塩」などの海産物が中心。塩は鰍沢で陸揚げされ、桔梗俵に詰め替えられ「鰍沢塩」として甲州一円はもとより、信州まで運ばれました。
当時、富士川を行き交った高瀬舟は、鰍沢から岩淵までの約72キロメートルを半日で下り、帰りは船に縄をつけて船頭たちが引っ張りながら富士川を4日から5日くらいかけて上ったそうです。ちなみに、岩淵から江戸浅草へは15日ほどかかったようです。
明治時代には取り扱う物資も多様化すると共に増大し、また、利用する人々も増加したことから航路の改修はさらに進み、航行する舟も大型化されたり、帆舟やプロペラ舟も登場するようになり、中頃には最盛期を迎えました。
繁栄を極めた富士川舟運でしたが、明治44年の中央本線の開通により物資の輸送が鉄道へと移り、3百年の歴史を閉じました。」(鰍沢町ホームページより)